そんなネクターの生家は、イフェメラ王国の西方に位置する大都市スチールギムレットにある。
その地の名門──ブラックバーン家と聞いて、知らぬ者はこの国にはいないだろう。ブラックバーン社。王国軍を主な取引相手とする飛行船製造の巨大企業だ。
莫大な資本力を持ち、「ブラックバーン社なくしてイフェメラ軍は成り立たない」とまで言われている。そして、その社の経営を担っているのが、ネクターの母・アナスタシアである。
婿を取って女が家督を継ぐ──代々続く女系家族という点もまた、異端の名を広める一因となっていた。
だが、それは同時に、ネクターの人生に重くのしかかる宿命でもあった。なにしろ、ブラックバーン家では〝長女が経営者を継ぐ〟のが絶対的な決まり。
ネクターは一人っ子。 つまり、家督を継ぐことは、生まれた瞬間から決まっていたのだ。将来の夫となる相手は優秀な技術者に限る。
雇う人材もまた、王国屈指の技術者ばかり。 経営を担う女は、まるで女王蜂のようにその頂点に立ち、全てを掌握する──。けれど、ネクターの関心は経営などではなかった。
幼い頃から、自社工場に入り浸っていた彼女の心を捉えていたのは、むしろ〝技術〟のほうだった。壊れた時計やラジオをお小遣いで買い取り、分解しては中を観察するのが日課。
歯車、リベット、ゼンマイ、香箱……その全てが精密に噛み合って動く、〝完璧な小さな世界〟にネクターは夢中になった。『私、大人になったら叔母さんみたいな修理技師になりたいの!』
『おじい様みたいに素敵な冒険もしてみたい!』 そう語る幼いネクターに、母は困り顔で笑っていた。だがその想いは年を経ても変わらず、十三、十四になっても言い続けた。そして十五歳の春、ついに母の堪忍袋の緒が切れた。
家庭教師による教育が一段落し、進学を控えた時期だった。激しい口論の末、ネクターは与えられた未来を拒絶し、半日かけて汽車に乗り、アッシュダストの叔母の元へと家出したのだ。
──それも、入学が決まっていた学院の入寮日前日に。その選択が母を怒らせることは、もちろん分かっていた。
だが、それでもなお、自分の手で夢を叶えたかった。当然、母は激怒し、ネクターを連れ戻しにアッシュダストまで訪ねてきた。
けれど、ネクターは頑として帰ろうとはしなかった。「お母様だって経営者でしょう? 仕事をしてるって意味では、私と同じ〝異端〟じゃない!」
「それとこれとは話が違うのよ!」 「何が違うのよ! 私は経営なんてしたくない。勝手に縁談なんて決められても、嫌なのよ!」──結婚なんてするつもりはない。
家なんて継ぎたくない。 私は、尊敬する叔母のように修理技師として生きていきたい!ネクターの心からの叫びに、叔母はほんのわずかだが、彼女の背中を押してくれた。
だがそれは、母の怒りに油を注ぐ結果にもなってしまった。「ブラックバーンの娘で、赤い髪の子が異端でなくて何なのよ! 貴女たちは本当の〝異端の魔女〟だわ。いいわ! せいぜい、うちの技術者たちより立派な修理技師にでもなってみなさい!」
──どうせ、無理でしょうけどね!
そう吐き捨てて、母は去っていった。
それを機に、親子の間には深い溝が生まれた。本来ならば副経営者として家にいる筈だった叔母に続き、「ブラックバーンの姓を名乗るな」とまで言い放たれたネクターは、それ以降、祖父の旧姓〝エヴァレット〟を名乗るようになった。
それにもかかわらず、母からの手紙は毎月欠かさず届く。
内容はいつも同じで、延々と説教じみた文面ばかり。 ネクターは次第に封を切ることすらしなくなり、二年経った今も、それらの未開封の手紙は、自室の隅にある木箱の中に静かに眠っている。叔母の工房に転がり込んでからは、猛勉強の日々だった。
──とはいえ、好きな分野だったこともあり、夢中になって学んだ結果、習得は驚くほど早かった。わずか一年足らずで、叔母が持つ技術や知識の大半を吸収してしまったほどだ。
『さすが、見込んだだけある。あんたも、まったくの変わり者だねぇ』
呆れながらも笑ってそう言われた時、ネクターは素直に嬉しかった。尊敬する人にそう認められることが、どれだけ誇らしかったか。学校の入学も蹴ってしまったので、仕事以外の時間は少しの余裕があった。
ネクターはそれからというもの、仕事の合間や休暇を使って、祖父の冒険手帳に記された地を訪れるようになった。 自由に、思いのままに。彼女は今、誰にも縛られない人生を歩んでいた。冒険についても、叔母は何も咎めなかったのもありがたかった。
『やりたいことを、悔いなくやればいい』と、ただそれだけ。 今回の外出も、「ガラクタ持ち帰って、部屋を汚くするんじゃないよ」とだけ言って、口出しは一切しなかった。(まぁ、今回の目的物がどんなものかは分からないし、持ち帰ることができるかも怪しいけど……さて。地形的には、もうすぐね?)
ネクターは片手で工具ポーチをまさぐり、コンパスを取り出す。
進行方向は南西。手帳に記されていた目印の森が見え始め、彼女は巧みに飛行二輪を操って、ゆるやかに高度を下げていった。(──念願ね! これで手帳最後の目的地、南西部ホワグラスの地底遺跡……《五百年の孤独》!)
ゴーグルの下、琥珀色の瞳を爛々と輝かせ、ネクターは森の中へと着陸した。
ネクターは、レックスの言葉に硬直した。 だが、驚きで固まったのは彼女だけではない。職人の街を行き交う人々も、皆一様に足を止めている。向かいの労働者宿舎の前で花に水をやっていたおかみさんなんて、如雨露を手から落とし、口元を押さえて目を丸くしていたほどだ。 沈黙を破ったのは、冷やかし半分の口笛である。続いて「いやはや」「若い子はまったく!」などと下卑た笑い混じりの囁きが、どよめきのように広がっていった。 ──アッシュダストの人間は横繋がりが深い。即ち、皆がほぼ知り合い同士だ。こういう噂話はあっという間に広がる。 きっと、夕刻になる頃には、きっと街中に「ネクターが若い男に抱き寄せられていた」などという尾ひれ付きの話が飛び交っているだろう。 想像するだけで頭が痛くなる。これはもう冷やかしどころではなく、本当にとんでもない事態だ。 ネクターは憤激を通り越して青ざめ、レックスを睨みつけた。けれど、当の本人はそんな視線を気にも留めず、ぐいとネクターを抱き寄せたまま、真っ正面からスコットを睨み据えていた。「……そういう訳だ。おまえには渡さないからな」 レックスにしては低く、はっきりとした声音だった。 言われたスコットはヘルメットを手に、肩を竦める。「そう。レックスの気持ちはよく分かったけどな……渡さないも何も、それって一方的だろ? 独占欲むき出しってのも、男としてどうかと思うぜ?」 呆れたような声音だったが、その顔は不思議と楽しげで、挑発の匂いすらあった。 スコットは、搬送用バイクのハンドルにぶら下げていたヘルメットを被り直し、さらに言葉を続ける。「だけど、まぁ……正々堂々と真っ直ぐ言える奴は嫌いじゃない。むしろ好感持てるな。……レックス、俺はおまえと友達になれそうだって思ったわ」 つい先程までの剣幕はどこへやら。 彼はニッと爽やかな笑みを浮かべ、スタンドを蹴ってバイクのエンジンをふかした。 一方で、レックスはと言えば、言われた意味
(いったい何だと言うのか……) 店の扉を閉めて、ネクターは正面に立つスコットを見据えた。昼下がりの街路は少し湿った風が吹いていて、遠くからは馬車の音が響く。けれど、この場に漂う沈黙のほうがずっと重たく感じられた。 スコットは言葉を切り出そうとしているらしく、唇をモゴモゴと動かしては閉じてしまう。 落ち着きなく視線を揺らす仕草に、じれったさを覚えたネクターは、つい我慢できず口を開いた。「……話って何?」 すると、スコットは唐突に彼女の両肩をガシリと掴んだ。 「え?」 突拍子のない行動に、思わず目を瞬かせる。 彼はひとつ深く息を吐き、ようやく腹を決めたように口を開いた。「……唐突にこんな事を聞くのは可笑しいかもしれないが、君とレックスは……恋人同士とか、婚約者とか、そんな関係なのか?」 真摯な声音だった。問いかけは重く、冗談の色は欠片も無い。 ネクターは思わず目を点にする。あまりにも意外すぎて、心臓が一拍遅れて跳ねるのを自覚した。 気温も相まって、妙に暑苦しい。ネクターは煙たげに目を細め、掴まれた肩を振りほどいた。 「そんなわけないじゃない。彼は……私の弟子で、助手みたいなものよ」 詳しい事情など言えるはずもなく、ぶっきらぼうに答えて視線を逸らす。だが、スコットの疑問はもっともだった。 修理工房ロウェル・ブルームは、叔母と姪だけで切り盛りしてきた小さな工房である。弟子など迎えたこともない。そんな場所に突然、若い男が住み込むようになれば、外から見れば不自然に映るのも当然だろう。「スコット……私は異端の女職人よ? 婚約者なんて愚か、恋人すらいるはずないじゃない?」 面倒くさそうに吐き出した直後、スコットの言葉が重ねられた。「そうか。じゃあ、俺が──ネクターのことをずっと好きだったと言ったら、どう思う?」
肥沃な大地に、鮮やかな向日葵の群生が風に揺れている。 七月中旬、南西部ホワグラス辺境の深い森林。その内部に穿たれた地底洞窟の前では、軍人たちが汗を流しながら調査に追われていた。 本来ならば人の気配など滅多にない静謐な場所である。だが今は、鉄を引き裂くような重機の音が岩を削り、森の青葉を震わせていた。「……そもそも、こんな辺境に軍事遺跡が眠っていたなんて誰が知ってただろうな」 若い兵士が上官の目を盗み、隣で作業に従事する同僚にぼやいた。「だな。国にとって触れられたくない何かが隠されてたんだろうさ」「五百年の孤独……『古代兵器アビス』とか言ったか」 小声で呟かれたその言葉に、仲間の兵士は思わず手を止め、汗を拭いながら眉をひそめる。「……どんな代物か想像もつかん。噂じゃ人の姿をしてるとか言うがな。所詮、機械仕掛けの人形みたいなもんだろう」「そうだな……にしても、気味が悪い」 ──崩落の通報は、近隣住民から警察へ。それが軍部に届き、こうして動員されるに至った。 気象予報士が当日の天候を調べ、地質学者がこの一帯の地盤を確認した。 崩落当日の天気は快晴。活火山など周辺にはなく、地震の記録もない。むしろこの辺りは岩盤が硬く、崩れる要素など見当たらなかった。 それにもかかわらず、突如としてこの地底洞窟は口を開いた。 ……偶然では説明できない。そう結び付けられたのが、古より隠蔽され続けてきた〝古代兵器の起動〟だった。 しかし、現場の下級兵士に詳しい情報は下りてこない。知っているのは、国民向けのラジオで流された程度の話と、断片的に聞かされた「アビス」という名だけだった。「何にせよ、崩落で犠牲者が出てないことを祈るしかないな。とはいえ……ひと月も経って何も見つからんのじゃ、もう打ち切りだろ」「同感だ。古代兵器なんて噂も、全部でたらめであってほしい」
「どう? 特等席のご褒美は」 声に促されて、ネクターも首を傾けて夜空を仰いだ。 夏の大三角が頭上に鮮やかに瞬いている。金銀の砂を撒き散らしたかのように、群星が視界いっぱいに広がっていた。 息を呑むほどの満天の星空――まるで、手を伸ばせば掬えそうなほど近い。 夜間に飛行すること自体は珍しくない。 だが、それはあくまでも移動の手段であって、立ち止まり、ただ空を見上げて心を寄せる時間など持ったことはなかった。 こうして空を走りながら、暢気に星を仰ぐ――それは思いがけず、胸の奥に沁み入るほど心地良いひとときだと改めてネクターは感じてしまった。 だが次の瞬間、不意に車体が大きく揺れた。 ガタン、と腹の底に響くほどの衝撃。風は無風のはずなのに。慌てて側車へ視線を投げれば、レックスが立ち上がっているではないか。「──何考えてるの! 危ないでしょ! 座って!」 必死に声を張り上げながら、ネクターは舵を戻そうとする。 しかし、飛行二輪は言うことを聞かず、ふわりと下降を始めてしまった。小高い山どころではない、高度は三千メートルはあるだろう。 冷や汗が背筋をつたう。「ちょっと! 座って! 墜落するわよ!」 悲鳴に等しい声が夜空に弾けたその時―― キンッと。空気を裂く甲高い音が劈き、ネクターは思わず瞼を閉じた。ところが、揺れはすっと収まり、下降も止まっている。残されたのは規則的なエンジンの唸りだけだった。 ……間違いない。 胸の奥で確信を得て、ネクターはレックスを振り返る。 そこにいたのは、あの時と同じ――悍ましき異形の姿。 しかし彼は、ただ夢中で空を仰ぎ見ていた。 そんな彼は、ブルリと全身を震わせると、グッと両手を空へと突き上げた。「やべぇえ! すんげぇええええ!」 それは新しい玩具を手にした少年のような、心底から無邪気な歓声だった。あまりの純真さに、ネクターは呆気に取られて口を開けてしまう。「手が、手が…&hel
──ナイトドレスを脱ぎ、長い桃色髪を二つ緩く結い上げ、いつもの作業用ドレスに着替えてから、最後に革のコルセットをきゅっと締める。 その動作を終えると、ネクターは指先で飛行二輪の鍵を付けたキーリングをくるくると回し、階段を軽やかに下って裏口へ向かった。 狭い通路に面した裏路地。そこには、すでに作業着姿のレックスが待っていた。壁に背を預け、いつものように所在なげに立っている。「それじゃあ、行きましょうか」 裏口すぐに駐輪してある飛行二輪に鍵を差し込みながら、ネクターは声をかけた。「星を見るって、飛行二輪で見に行くのか?」「そうよ。アッシュダストはスモッグに覆われてるから、快晴でも星を見られることなんて滅多にないの。だから特別に、夜間飛行に招待してあげる。どう?」 からかうように言えば、レックスは迷いもなく頷いた。その素直さに、ネクターは少しだけ頬を緩める。 そうして飛行二輪を押しながら、工業地帯の河川敷を目指した。 ──エンジンは小型蒸気機関、燃料は灯油。側車付きの大型車体ながら、総重量は八八二ポンド前後。 数字だけ見れば軽量な部類だが、ネクター自身の体重からすれば九倍近い重さである。それでも二輪。否、側車付きなので正確にはタイヤは三つある。要領さえ掴めば、手で押すことも難しくない。 けれど、それは道が平坦なうちだけの話。 土手へと繋がる緩やかな上り坂に差し掛かれば、全身を前に倒し、体重をかけなければ前に進まない。 ネクターは汗を滲ませながら、ぐっと力を込めた。だが、不意に車体が軽くなった気がして振り返ると──レックスが側車を押していた。「ありがと」「これくらい。ていうか、おまえ、いつもこんな馬鹿みたいに重いモンをいつも押してんのかよ……」「そうよ? でも日頃から倉庫で部品を運んだりもしてるし、力には自信があるの。それに飛行二輪を押すようになってから、前より鍛えられた気がするわ」 肩で息をしながら笑えば、レックスは「頼もしいな」と苦笑した。 その目が優しく穏やかすぎて、ネク
爽やかな初夏を通り過ぎ──七月。夏が本格的に幕を開けていた。 工業都市アッシュダストは、王国内でも随一の熱気に包まれる場所だ。昼間は蒸気自動車や二輪車が往来し、夜になっても工場の煙突から吐き出される煙と熱気が街を覆い尽くす。熱は逃げ場を失い、重苦しく淀んでその場に留まる。 ──つまり、とてつもなく寝苦しいのだ。 その夜も、深夜二時を回っていた。ようやく浅い眠りに落ちかけていたネクターは、隣の部屋で窓が開く微かな音に気づき、ぱちりと瞼を持ち上げる羽目になった。 隣はレックスの部屋だ。 こんな時間に何をしているのだろう。顔をしかめながらも、寝汗で貼り付く髪を払い、ネクターは身体を起こした。 以前は足の踏み場もなかった自室だったが、あれ以来、きちんと整理整頓を心がけていた。 反面教師を目の前に置いておくわけにはいかない──そんな心境からだ。今では部屋の床はすっかり片付けられ、窓まで障害物なく辿り着けるようになっていた。 窓を押し開けると、どんよりとした淀んだ夜気が入り込み、肌にまとわりつく。蒸し暑く、重く、息苦しい空気が漂っていた。 琥珀色の瞳を細めて、不快感を堪えながら隣の部屋へと視線をやると……案の定、レックスの姿があった。 彼は窓辺に身を乗り出し、靄のかかった紺碧の夜空をじっと見上げている。「もう。こんな夜中に何してるの? 起きちゃったじゃない」 ただでさえ眠れない夜だというのに、と小言を交えて声をかける。するとレックスはネクターの方へ顔を向け、小首を傾げた。「真っ白な鳩がな、窓の外からボクをじっと見てたんだ」 「……鳩?」 思わず素っ頓興な声が漏れた。 寝ぼけているのだろうか。鳩なら確かにこの街にもいるが、鳥だって夜は眠るものだ。こんな時間に飛び回るなど、あり得ない。迷惑きわまりない話である。 ジトリとした目で睨みながら言う。 「さすがに見間違いじゃないかしら? 明日も仕事なのを忘れてないでしょうね」 ──修理職人の朝は早い。眠たくて働けないなど、労働者として論外だ。そう釘を刺してみせたのに、レックスは上の空のように夜空を見つめ、気のない返事しか返さない。 普段は小動物のように無駄に元気で、何かとキビキビしているのに。そんな彼が妙に神妙にしているのが、かえって不思議に思える。ネクターは首を傾げながらも、窓を閉め